がんばっている人ほど壊れます。これは、きれいごとではなく構造の話です。
わたしたちは小さい頃から、「がんばれ、がんばれ」と言われて育ちました。ちょっと思い返してみてください。親だけじゃない。先生、友人、先輩——あらゆる人から、ことあるごとに「がんばれ」と言われ続けてきた。
たとえば運動会。わたしは運動が苦手で、どんなに一生懸命走っても遅かった。それでも「がんばれ!」と声が飛んでくる。隣のルミちゃんは、何の苦もなく、軽々とすごいスピードで走っていく。
がんばっているのに、追いつけない。
勉強も同じでした。成績を上げるために「もっとがんばれ」と言われ続けた。がんばっているのに結果が出ない。すると「がんばりが足りない」と言われる。
けれど、わたしにも得意なことがありました。ピアノです。当時ピアノを習っていて、たぶん上手に弾けるほうだったと思います。なぜ他の人がうまく弾けないのか、正直わからなかった。走るのは全然ダメなのに、ピアノは「がんばっている」感覚すらなく弾けていた。
そのとき気づいたんです。
ルミちゃんが走るのと、わたしがピアノを弾くのは、同じだったんだと。ルミちゃんも「がんばって」走っていたわけじゃない。もともと持っている力が、そこに合っていただけ。
人には、もともと持った才能がある。できないことに歯を食いしばってエネルギーを注ぎ続けるのは、ある意味、無意味なんです。
なのに社会は「苦手を克服しろ」「がんばれば何でもできる」と言い続ける。
「がんばる」という言葉には、ある前提が隠れています。「今の自分ではダメだから、もっと何かをしなければならない」。
つまり、がんばるとは「自分を否定すること」から始まっている。
「ダメな自分」を出発点にして走り続ける。穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるようなもので、どれだけ注いでも満たされません。
恐怖で動くか、「こうしたい」で動くか

あなたの一日を振り返ってみてください。
怒られるのがこわいから働く。嫌われるのがこわいから合わせる。お金がなくなるのがこわいから我慢する。「ちゃんとしていない自分」がこわいから、休むことすらできない。
恐怖で動いている時間が、どれくらいありますか。
わたしは中学生の頃から、ずっとそうでした。怒られるのがこわいから、勉強しているフリをしていた。昭和生まれなので、学校では先生も堂々と暴力をふるっていたし、いわゆるヤンキー学校だったから、逆らうなんて選択肢はなかった。大人に反抗できる勇気もなかった。
「勉強がんばれ」と言われても、やっているポーズだけして、やっていませんでした。嘘つきですよね。大人にいろいろ言われても、やってるフリをして、逃げまわっていた。
けれど、好きなことだけは一生懸命やりました。それがピアノだった。
ピアノの前に座ると、だれにも言われなくても弾いていた。怒られるからじゃない。こわいからじゃない。「練習」という感覚ですらなかった。わたしにとっては「お稽古」——その世界にただ浸っている時間。がんばっている意識なんて、なかった。
同じ「わたし」なのに、恐怖で動くときと、「好きだから」で動くときで、まるで別人だった。
恐怖は、最も効率的な支配の道具です。怖がらせれば人は従う。不安にさせれば人は依存する。社会も、職場も、ときには家庭の中でさえ、この構造が動いています。
けれど、もうひとつの動力がある。
好きだからやる。楽しいからやる。心地いいからやる。
同じ行動でも、動機が恐怖か「こうしたい」かで、結果はまったく違います。恐怖で動くと疲弊する。「こうしたい」で動くとエネルギーが湧いてくる。勉強しているフリのわたしと、ピアノを弾いているわたし。答えは、もうあの頃から出ていたんです。
力を抜いたら、ものごとが動き始めた

40代までは、できる人になりたかった。何でもかんでもがんばろうと思っていました。
まわりの「がんばれ」に応えたかった。応えられる人が能力が高くて、カッコいいと思っていたから。頼まれたら断らない。苦手なことも引き受ける。「すごいね」「頼りになるね」と言われるたびに、自分の価値を確認していた。
けれど今は、ちがいます。
がんばるのをやめた、というのは「何もしなくなった」という意味ではありません。「自分を否定しながら走ること」をやめた、という意味です。苦手なことに歯を食いしばるのをやめて、自分に合った場所に力を使うようにした。
すると、ふしぎなことが起きました。
焦りがなくなって、目の前のことに集中できるようになった。「こうしなきゃ」ではなく、「こうしたい」で動けるようになった。必要な人や情報が、向こうからやってくるようになった。
あの頃のわたしは、ピアノの前に座っているときだけ「こうしたい」で動いていた。それ以外の時間は、全部恐怖で動いていた。
今はピアノの前に座ることはなくなったけれど、その代わりに、パソコンの前に座っています。こうして言葉を書いている時間が、至福なんです。だれにも言われていない。締め切りもない。ただ、書きたいから書いている。
あの頃のお稽古と、同じ感覚。
がんばっているつもりはない。けれど、いちばん力が出ている。
がんばるを手放したら、自分が見えてきた

がんばるを手放したことで、自分がほんとうにやりたいことが見えるようになりました。
けれど、手放すときは怖かった。
正社員をやめたとき。もうだれからも必要とされなくなる、社会の落ちこぼれになると思いました。パートをやめたときも同じ。子どもが巣立ったときも不安だった。もう必要とされない。がんばらなくていい。それ自体が、怖かった。
「がんばる理由」がなくなることが、いちばん怖かったんです。
がんばっている間は、自分の存在意義を感じられた。だれかに必要とされて、だれかの期待に応えて、それで「わたしはここにいていい」と思えていた。その支えがなくなったとき、自分が何者でもなくなる気がした。
けれど、全部手放したときから——自分軸ができてきたんだと思います。
だれかに必要とされなくても、わたしはここにいていい。がんばらなくても、わたしには価値がある。それを頭ではなく、体でわかるようになるまでに、ずいぶん時間がかかりました。
今、パソコンの前に座って言葉を書いている。この時間が至福だと思える。それは、全部手放したから見えた景色です。
「がんばらなきゃ」と思ったとき、その裏にあるのは恐怖か、「こうしたい」か。立ち止まって見てみてください。
バケツの穴を、まずふさいでから。
その小さな積み重ねで、人生を変えていく。

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